岡山県玉野市に伝わる伝説-大槌・小槌・大蛇退治-

大槌・小槌・大蛇退治

大槌・小槌の二つの島は日比沖にあって、大槌島は岡山県と香川県の県境になっている。標高約150メートルの円錐形の島で木が繁って、鳥などの天国になっている。

 

この大槌島には竜王の窟、告の井戸、夫婦岩などがあり、昔、この島から大蛇が日比村にあった八幡様に渡って来て人を悩ました。その頃、日比に住む加地籐左衛門という人がいた。彼は武技に長じ、勇猛で腕力が強く、弓の達人であった。ある夜、夢の中で神様が枕もとに立って、「大槌島に大蛇がいて、そのため村の人が長い間、悩まされて困っている。お前がこの災いを取り除いてくれ」と告げた。夢からさめると枕もとに弓と矢があった。彼は翌日、大蛇の渡ってくるのを待とうと海辺に出てみると、すでに大蛇はやって来ていて、大きな松に巻きついていた。大きな目を輝かせて口の中から長い舌をのぞかせていた。彼は百メートルばかり離れたところから矢を放った。矢は狙いをたがわず大蛇の喉に当たって大蛇は死んだ。しかし、同時に加地藤左衛門も大蛇の息にかかって気を失って倒れた。おりから、むら雨が降ってきて藤左衛門の喉に入った。彼は、生きかえったのである。

 

人々は神のお助けと藤左衛門の勇敢なことに感心しほめたたえた。 この時の大雁(矢の名前)は享保の初めまで伝わった。また、大蛇のうろこも現在の御前八幡宮に残されているという。

 

また一説には、その時、日比港に入っていた難波の米船が死んだ大蛇と米とを交換して持って帰ったともいわれている。 日比の八幡宮は、当時、日比の宮山の頂上にあったものを文明年間に麓に移したが、昭和18年に現在の御前八幡宮に合祀されている。

 

「玉野の伝説」

著者:河井康夫

発行:昭和53年

 

大槌・小槌の誕生

この島ができた面白い伝説がある。備前の国に鍛治八百八流があった昔、児島郡日比に長船鍛治の祖が住んでいた。

 

しかし、 「日比は、塩地で水か荒く、鉄を鍛えるのには適していない。ここではもう刀は打つまい。」と、彼はまず金床をとって海中に投げ、ついで槌二つ投げたという。それが、金床の岨(そわい)となり、はるか沖合にとんだ槌が小槌島に、手前に落ちたのが大槌島になったという。この付近は漁民にとって鯛やさわらの大切な漁場であり、昔から備前と讃岐の境界あらそいが絶えなかったところである。

 

「玉野の伝説」

著者:河井康夫

発行:昭和53年

 

樽流し

備前藩と高松藩とで、境界争いが起こったのは享保17年(1732)のことであった。事の起こりは讃岐の漁師が大槌島付近の大曽の瀬とこれまで備前藩の所属と考えていた大槌島に讃岐の漁民がはいりこんできた。このことが発端になって両藩の争いになった。そして幕府の裁きを受けることになった。備前藩では、これは大変と藩老の伊木長門は小川村(児島)の名主菅野彦九郎を選び、これを大庄屋格にして江戸にのぼらせた。

 

彦九郎は、才知と弁舌で活躍し、その結果、「境界を証拠だてるものはないが、備前は前々から鯛や鰆を献上をしており、双方が漁をしている大槌島は讃岐に近いが、島の北側は日比村のものが開いた畑があり、幕府の絵図には讃岐と備前の両方に大槌島が記されている。そのため、島の中央を両国の境界とし、猟場も北側は備前、南側は讃岐とする」と有利な裁きを受けた。その裁きをした役人の中には大岡越前守の名もある。彦九郎はこの事件で一躍名をあげた。ここまではよかったのであるが、その後も境界争いは絶えなかった。何かよい方法はないかと知恵者の彦九郎は樽を流して両藩の境界を決めようと妙案を考えた。

 

そして、ある日こっそりと大槌島から樽をながしたところ、樽は塩飽諸島の殆どを含んで流れた。備前藩にとっては有利な案である。この試しで気をよくした彼は讃岐側へ国境は樽流しで決めようではないかと申し入れた。讃岐側もそれは妙案だと、吉日を選び、両藩立会いのもとで大槌島から樽は投げこまれた。彦九郎は心の中で「今に見ていろ」とほくそえんでいた。しかし、どうしたものか樽は彦九郎の予想を裏切ってどんどん備前側に近寄っていった。彦九郎は青くなったが、どうしようもない。樽はやっと鷲羽山付近の釜島と室木島の間で西に向きを変え、松島の南をすれすれに流れ、下津井瀬戸の真中をゆっくりと進んで、さらに六口島の南をぐるりと回って、夕がすみにつつまれた水島藩へと消えて行った。こうして両国の境界が決まり、櫃石島は讃岐側になった。知恵者、彦九郎も潮流の変化には気がつかなかったのだろう。

 

菅野彦九郎は享保の大槌島境界論争に活躍した大庄屋で実在の人物である。

 

「玉野の伝説」

著者:河井康夫

発行:昭和53年

 

槌の門と竜神

大槌島と小槌島の間は、槌の門(つちのと)といって、瀬戸内海でも深くて、潮の流れの早い事でも知られている。

 

宝亀八年のことである。紀伊の安隆上人は長谷観音のお告げで、周防の皆足姫とともに観音堂を建立せんと周防をたった。

 

上人が讃岐の国を経て、備前への船旅の途中、槌の門にさしかかると、にわかにに海は干潟になり、そこに竜宮が出現し、その中から竜神が現われて、上人に犀の角を授け、 「この犀の角を埋めて、その上に観音堂を建立せよ」告げて、そのまま消えてしまったという。

 

「玉野の伝説」

著者:河井康夫

発行:昭和53年

 

槌の門と大乗経

嵩徳上皇は配流の地、皷岡(つづみがおか)御所でわびしい日々をおくられていた。上皇は毎日のように机に向かわれ、後世のために五部の大乗経をお書きになった。せめて、大乗経を都に置きたいと申し出られたが、とうとう許しはなく、三年の月日をかけて写経したお経は空しく送り返されてきた。上皇は大変ご立腹になり、この大乗経の奥にご誓状をされて、大槌と小槌島の千尋の底に沈められた。それからこの大槌島が経が島とも呼ばれるようになった。

 

そして、その流れはより速く、神秘的な潮のいろをみせるようになったということである。

 

「玉野の伝説」

著者:河井康夫

発行:昭和53年

 

槌の門と水乞い

さきにも述べたように、槌の門に竜宮があって竜王が住んでいたが、この竜王は旱魃(かんばつ)と水乞いに関係している。この話は讃岐側の伝説である。

 

ある年の夏、高松藩は非常な旱魃(かんばつ)にみまわれた。稲は枯れ、飲み水にも不自由した。 ときの藩主、松平公はこれをひどく心配して宝泉寺の了応和尚に雨乞いをするよう命じた。和尚はいったん断ったが、松平公のたっての所望であり拒みがたく、引き受けた。

 

条件として一つ願いがあると次のようにいった。 「私を堅固な船に乗せて、大槌、小槌のあたりまで運んでくだされ。」 藩主はそれはたやすいことと、船奉行を召して、大きい鯨船を用意させた。そして十六人の船子を乗せ、和尚を槌の門まで運んだ。何かしたためた書きつけを和尚は懐中から取り出して、それを海中に投げ込んだ。

 

そして、船乗りに「さあ、皆の者、今から大雨が降るけに、早よう船を漕ぎもどせ」といった。船乗りたちはこんな良い天気なのに雨なんかが降るもんかと思ったが、何しろ貴い坊さんのいうことである。エンサ、エンサと船を漕いで戻ろうとすると、五色台の白峰の山の上に黒雲が現われるとみるや、一天にわかにかき曇り、そして大粒の雨が滝のように、ザーッと降ってきた。ほうほうのていで船は四国に漕ぎつけた。それから三日三晩も降りつづいたので、今まで枯れそうになっていた稲もよみがえって、殿様も百姓たちも安堵の思いをしたという。

 

そこである人が和尚に一体あなたはどうやって雨を降らしたのですかと聞いた。 すると和尚のいうには竜神殿に次のような手紙を書いたのじゃよ。

 

「一筆啓上、さて讃岐は大日照りで国中が難儀してござる。ぜひ、一雨降らせてくだされよ。もしも、ご承知がなければ、私がまいって話しとうござる」と。

 

「玉野の伝説」

著者:河井康夫

発行:昭和53年

 

大槌島の財宝

大槌島には、昔、八幡船と呼ばれる海賊が略奪した金銀財宝を埋蔵したという伝説もある。大蛇が棲むという伝説も実は人を近づけないために流した噂であるともいう。とにかくこの島は洞窟などもあり太古の昔は火山であったのか、溶岩らしきものが散在し、ロマンと伝説を呼ぶ島であったのだろう。

 

「玉野の伝説」

著者:河井康夫

発行:昭和53年

 

 

このカテゴリーの伝説

浜の神様
県内でも有数の海水浴場である渋川海岸は、夏には大勢の海水浴客でにぎわう。この海岸の松林の中に渋川八幡宮があり、境内に「浜の神さま」と呼ばれている小さな社がある。
西行と渋川
現在、渋川海岸には海洋博物館の近くに西行の大きな像が建っている。そして海岸に沿った遊歩道の脇の石碑に西行が詠んだ歌が彫られている。
大槌・小槌・大蛇退治
大槌・小槌の二つの島は日比沖にあって、大槌島は岡山県と香川県の県境になっている。標高約150メートルの円錐形の島で木が繁って、鳥などの天国になっている。
海の幽霊
海に出れば、現代でも常識では、はかり知れないことがよく起こる。風がないのに急に、波が高くなったり、潮が早くなったりする。そうしたことで命がけの航海をすることが多い。そこに海の神秘を感じ、信仰や伝説が起こるのであろう。
流し初穂
備讃瀬戸を航行する船が海上から金毘羅宮のある象頭山を拝んで、乗組員のさい銭を墫につめ"奉納金毘羅宮"、ののぼりを立てて海中に投げこむ
五人宗谷(ぞわい)
宇野港の沖合の鳥島と京の上搏(じょうろうじま)の間にある岩礁が五人宗谷と呼ばれている。潮が満ちて来ると海中に隠れるが、潮が引くと点々と黒い岩が顔を出す。
京の上臈島(きょうのじょうろうじま)
直島の北に位置し、高部鼻から1.3キロ程度のところにある。 このほかにも、多くの伝説がある。
黒岩大明神
歌見の沖合いは、昔、児島の北航路なっていて、このあたりの海の難所であった。
山伏の瀬戸
渋川から唐琴に山伏の瀬戸と呼ばれるところがある。そこは奇岩が重なり、崇拝の洞窟などがある聖域であった。