岡山県玉野市に伝わる伝説

京の上臈島(きょうのじょうろうじま)

直島の北に位置し、高部鼻から1.3キロ程度のところに京の上臈島(きょうのじょうろうじま)がある。

 

ここには多くの伝説がある。

 

気味の悪い京の上臈島(きょうのじょうろうじま)

昔、西国の船乗りが都に出かけて行って、美しい上臈を買いうけて船にのせて連れて帰ろうとした。この島までくると嫌気がさして、この島にすておいたまま、船乗りは帰ってしまった。

 

京の上臈はこの島で飢えに苦しみながら死んでしまったが、その祟りがあるので、この島へは今も船がかりができないとして恐れられている。

 

「玉野の伝説」

著者:河井康夫

発行:昭和53年

 

海賊の横行した京の上臈島(きょうのじょうろうじま)

京の上臈島は別名、屍島とも呼ばれている。このあたりは響の灘、玉の浦よりは東にあって小さな島々が散在している。昔から海賊がいて殺された人が多かった。昔、門部府生という者がいた。屍島で海賊に会い、先の丸い矢で、海賊を射て難をまぬがれたことが長明のねぎ禰宜の物語にのっている。

 

このあたりは奸賊の多く集まるところで、海辺には要塞を作り、当時としては優秀な武器も備えていた。響の灘と共に恐れられていたてころである。この奸族に京の上臈が殺されたとも伝えられる。

 

この門部府生が屍島(京の上臈島)のあたりを舟で過ぎようとした。その時、 「あれをご覧ください。あの舟は海賊の舟です」と共の者たちは騒ぎ出した。

 

門部は、「騒ぐな、千万の海賊があろうとも、見ていろ」といって、当時の優雅な正装に着替えた。共の者はは気でも狂われたかと思った。「どうか賊を討つ用意を願います」とおろおろした。

 

矢のように近づいた海賊の舟は四、五メートルの距離にせまった。海賊の一人は黒い装束をしていて、赤い扇を使って命令した。「早く漕ぎ寄せ、何でもよい取れ」。門部の共の者は恐れと船酔いで黄水を吐いていた。

 

この時、門部は、一向に騒がず、弓を引いた。その矢は海賊の左の目に当たった。「ワーッ」といって海賊の統領は扇を投げ捨ててのけざまに倒れた。そして、眼にささった矢を抜いてみると、それは美しい塵はらいのもので、とうてい戦に使うものではなかった。

 

海賊どもは、門部の方をみながら、 「ややっ、これはただの矢ではない。神矢だぞ。早く漕ぎ戻れ」とわめきながら、物など放り出したまま逃げ帰った。

 

その時、門部はうち笑って 「なんだ、頼りない奴どもだ」といって、海に落ちて浮かんでいる海賊どもを拾い上げて「こやつ共を返してやるから、舟を戻せ」と笑っていたという。

 

「玉野の伝説」

著者:河井康夫

発行:昭和53年

 

 

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