坊主池
滝の正蔵院を少し北に登ったところに、奥池がある。この池はよく土手が決壊するので最近は土手を改修した。
改修前には土手に大きな松があって、その横に地蔵さまと、身先宮と刻まれた赤みがかった石碑が建っていた。地蔵と石碑は現在もあるが、この池を地元の人は坊主池と呼んでいる。この池について、江戸末期のお坊さんの悲しい伝説が残っている。
江戸末期の文化文政の頃、滝の寺に若い坊さんがいた。当時のお坊さんは妻帯を許されず、非常に厳しい戒律があった。しかし、お坊さんとて人間、その若い坊さんは、土地の若い娘さんと恋におちた。真面目なお坊さんだけに、日夜もんもんとして悩んだ。
また、岡山藩の宗教政策として、寺院を廃寺にして、僧侶を還俗さす策がとられ、特に玉野市の南部では殆どの寺院が廃寺になった。こうした宗教政策に抗議する意図も合ったのであろう。
その若いお坊さんは、奥池の土手の松の枝から池に身を投げたのである。
ちょうど、池の中に姿をあらわしていた鉄石に頭を打って死んだ。
この鉄石は、池の守護石ともいわれ、満水になると姿を消すが、水が干上がると姿を見せる岩で、土手の改修で今は不明になっている。土地の人はこの若いお坊さんをあわれがり、守護石と同じ鉄石で作った石碑を建て、年に一度八月には、むすび、にしめなど持ち寄って供養している。
なお、滝地区には廃寺院が多く、現在も地名に次の七坊の名が残っている。
大坊、岡の坊、正尺坊、中の坊、池の坊、北の坊、奥の坊。滝地区は市内でも早くから栄えた地区で、古墳、寺院跡などの多いところである。
「玉野の伝説」
著者:河井康夫
発行:昭和53年
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