岡山県玉野市に伝わる地名やその地の伝説

常山落城と鶴姫の奮戦

常山山頂には深い木立に囲まれて、女軍の墓が静かに眠っている。大きな歴史の流れの中で滅びていった常山城を常山軍記を中心に述べてみよう。

 

時は戦国時代、下克上の血で血を洗う弱肉強食の時代であった。このあたりでは高梁の三村元親、備前の宇喜多家が勢力を競っていた。一方、それより大きな勢力として織田信長の軍勢が播磨まで出張っていた。一方、西国では毛利の軍勢が勢力を誇っている。常山城は三村方の上野高徳が城主として児島地方を治めていた。

 

三村元親を中心とする一族はこれまで毛利方と手を結んでいたが、次第に勢力を伸ばしてきた織田方と結んで、宿敵の宇喜多氏を討った方が得策だという軍議をひらいたが、三村一族でも成羽城主の三村親成父子はこれまでどうり毛利と手を結ぶべきだとゆずらず、とうとう毛利方についてしまった。

 

そして、毛利方の援軍が高梁につく前に毛利軍と三村親成らは、備中松山城を中心とする城をことごとく滅ぼしてしまった。

 

その勢いにのって、三村一族の常山城を攻めたのは天正三年六月四日。仲間割れした三村親成を大将として、彦崎に二千余騎、長男孫太郎は迫川あたりに千三百余騎、毛利の小早川光重は山村から豊岡にかけて陣をはった。

 

最前線は宇藤木に浦野宗勝が二千余騎、総勢六千余騎の大軍であった。これに対し、常山城は兵の数は不明だが、圧倒的に少なかった。始めから負けると知れた戦である。夜陰にまぎれて城を落ちる者が絶えず、最後に残ったのは八十三人の兵と女たちだけになった。

 

初日の戦いは城主高徳らの奮戦で善戦はしたが、しょせんは勝ち目のない戦い。

 

翌日は主従が今生の別れと朝から酒宴を催した。その後、それぞれ覚悟の自刃とまず継母と、続いて長男の高秀が自刃、そして幼い次男、妹も高徳が刀でさし殺した。戦国のならいとはいえ、目をおおうばかりの情景であった。城主、上野高徳の妻は鶴姫といって、高梁の松山城で滅んだ三村元親の妹であった。

 

この鶴姫は女傑であったらしく、「私は武士の妻となって、敵の一騎も討たずして、同して死ぬことができようか」といってなぎなたを小脇にかかえて躍り出た。

 

はじめはあたりにいた女たちもおしとどめたが、最後には、どうせ死ぬ身なら、お供しましょうと女たち三十四人は麓の浦野宗勝の軍に斬り込んだ。

 

しかし、善戦むなしく、殆どは斬り死にし、鶴姫ももうこれまでと城に戻って、城主、高徳一族とともに自害した。とくに、妻の鶴姫は口に太刀をくわえてうつ伏せに自害した。目に浮かぶような戦国の情景である。

 

この戦いによって、備中の兵乱は終わりをつげたが、戦国の世といえ、たぐいまれな常山城主の妻の物語である。この常山軍記も後世に書かれたもので、どこまで真実なのか。

 

現在では、かなり歴史とは違った面が散見される。

 

「玉野の伝説」

著者:河井康夫

発行:昭和53年

 

参考リンク

豊岳山久昌寺
常山のふもとにあるお寺、豊岳山久昌寺のホームページでも常山城の落城、女軍のことが掲載されていますので興味のある方は、ご覧になってみてください。

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