岡山県玉野市に伝わる地名やその地の伝説

簀巻き長兵衛

宇野二丁目に児島霊場の第十五番札所になっている日輪庵がある。このすぐ側に、高さ1メートルくらいの石の地蔵様がまつられ、花や菓子が所せましと供えられている。

 

この地蔵さまにまつわって、今も昔もかわらぬ男女のもめ事があった。これは江戸も末の話である。

 

いつの頃から宇野に住みついたのか長兵衛という若者がいた。彼は備後の生まれだといって、この村で日雇い人夫や使い走りの雑役を業としていたが、背格好から顔型まで、端正で男でもほれぼれする程の美青年であった。

 

この長兵衛は日雇人夫であり、おまけによそ者であるにもかかわらず、村の娘たちに人気があり、いつの間にか娘たちは彼に心を寄せるようになった。一人増え、二人増え、長兵衛を恋い慕う娘たちは次第に増えていった。長兵衛も次々と女をかえていくというありさまに、村のほかの若者たちの気持ちは穏やかではなかった。

 

村の娘たちが、次々と長兵衛の男ぶりに、心を奪われるのは何ともやりきれないのである。ある日、若者たちは長兵衛をこらしめてやろうと相談し、夜の更けるのを待って、女の家から帰るのを待ち伏せ、田んぼ道の暗がりでつかまえた。恋のうらみをこめて、なぐる、けるの乱暴。大勢の若者がよってたかって袋叩きにしたうえ、付近にあった野つぼの中へほうり込んだのである。

 

ところが「二度と村の娘たちに手を出したら承知しないぞ」とこらしめた筈の長兵衛は逆に娘たちから同情され前にも増してモテはじめた。長兵衛もまた生身の男である。袋叩きにされて、臭い野つぼに投げこまれたが、娘たちとの交遊はやまらなかった。

 

おさまらないのは、村の若者たちである。今度は長兵衛を呼びつけて、村の娘たちをたぶらかすなと強談判に及んだが、彼は居直って「私ばかりせめても仕方のないこと」といい、「皆さんが、力づくでわたしをいじめるなら、私のほうにも覚悟がある」というのである。

 

一体、覚悟というのは何か、と聞くと、「この村に赤馬を走らせてやる」という。赤馬を走らすというのは、つけ火をして村を焼き払うということである。これは、大変なことになった。よそ者である長兵衛なら、ただのおどしではなく、本当にやりかねないと思った。若者たちはその対策に困った。幾たびか相談の末、かわいそうだが「あいつを始末してしまう以外に方法はない」ということになった。

 

そんな恐ろしいたくらみがあるとはつゆ知らず、長兵衛は、今夜も女の家を出て、星空の野道を帰っていると、突然、数人の若者に襲われた。

 

抵抗するすべもない長兵衛はまたも、なぐる、けるという乱暴の末、荒縄で縛りあげられ、こも包みにされた。若者たちはしばりあげた長兵衛をさらにこもで包んで海に運びかけたのであるが途中、片山(かたま)というところまで来ると、こもが破れて長兵衛は地面へ放り出された。

 

「海に投げて殺される」と直感した長兵衛は、「もう、決して村の女は相手にしない。二度と悪いことはしないから、どうか勘弁してくれ」と何度もてを合わせて拝んだ。しかし、若者たちは許さなかった。

 

そのうち、誰かが頑丈で大きなよしずを持ってきた。長兵衛はふたたび簀巻きにされ、その上から縄で巻かれ、かつぎ上げられた。若者たちは、そのままうそごえの網打場に運びその突端から海に投げこんだ。

 

一年が何事もなかったように過ぎた。そして村人はこの事件をようやく忘れかけていた村に、妙な病気が流行しはじめた。ひどい咳がでて、熱が高いという病状で、それがあちらこちらにもといった調子でひろがっていった。医者に見せても原因が解らないし、手当ての方法もないという。村は大騒ぎとなった。いつ自分がこの不思議な病気にかかるかも知れない。そのうち、これは去年に簀巻きにして投げこんだ長兵衛のたたりではなかろうか、という噂まで出はじめた。

 

そこで、村中で相談し、厄払いのご祈祷をしたところ、海で死んだ若い男の怨念がたたっているという。思い当たる村人たちは、恐ろしさに後悔したが、今更どうすることも 出来ない。恐る恐る、「では、どうすれば、その仏の怨みをを鎮め、成仏してくれるでしょうか」と祈祷者にたずねた。祈祷者はしばらく、瞑目していたが、「この死霊のたたりを解くことは容易ではないが、石地蔵を作って村中で供養をしたならば、鎮まるかもしれない」という。村人たちは早速、石地蔵を刻み、長兵衛がてを合わせて、命乞いをした「かたま」に建立し、盛大な法会をすると共に、村中総出で盆踊りを行って回向し、長兵衛の冥福を祈ったのである。

 

七月二十三日は長兵衛が死んだ詳月命日であり、宇野の人たちはそれ以来、毎年この日が来ると盛大な盆踊りを行い、夜の明けるまで踊ったということである。

 

「玉野の伝説」

著者:河井康夫

発行:昭和53年

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