岡山県玉野市に伝わる偉人や人にまつわる伝説

利生の児島高徳

児島高徳は「太平記」(南北朝時代を描いた軍記物の傑作)のなかで、中心的に活動する人物である。南北朝時代に南朝について奮戦し、後醍醐天皇を助けて活躍し「天勾践を空しゅうするなかれ、時に范れいなきにしもあらず」という詩を書いて、天皇に忠誠を誓った物語はあまりに有名である。しかし、太平記が史実としてどれだけ信頼できるかという疑問がもたれ、児島高徳の存在を疑う人も多い。

 

児島高徳が実在するにしても、出生地、居住地などまちまちで決定的なものは何もない。

 

和田利生というところに共同井戸があって、高徳井戸と呼ばれている。この近くに、「高のり屋敷」としるされたものもある。倉敷市林の五流尊滝院に伝わる児島高徳の伝説を中心に紹介しよう。

 

児島高徳は倉敷市林の五流尊滝院で延慶三年(1310)に生まれた。両親は後鳥羽上皇の第三子、頼仁親王の第四世、頼宴大僧正(父)と佐々木盛綱の女、信夫(母)であった。

 

高徳は、幼い頃、名を高丸といった。父の大僧正の教えを受けて、和漢の学を学び、神童と呼ばれる程であった。高丸が七才の頃、花園天皇と後醍醐天皇の皇位継承について北条氏が介入した話をきき、また、かねがね後鳥羽上皇が承久の昔、北条氏のために讃岐に流されたことを父に聞いた。そんなことで大きくなったら武士になって、北条氏を亡ぼそうと思っていた。

 

父の大僧正は三宅範長と相談して、範長が高丸を手もとに引きとって、武士として教育することになった。三宅範長は、その頃までは、児島の五流尊滝院の付近に住んでいた。

 

しかし、孫の高丸を武士として、教育するには、生まれた近くより他の場所がふさわしいと思った。三宅範長は一党が住んでいた邑久町上寺山周辺に館を移した。

 

高丸は十五才、正中二年に元服した。そして児島姓を名乗らせた。大僧正の三男なので三郎とした。児島備後三郎高徳と名乗らせ、和田一門の頭領としたのである。

 

元弘元年(1331)、後醍醐天皇は北条氏討伐の軍を起こそうとした。しかし、計画は事前にもれ、笠置山に立てこもった。これを聞いて、高徳はさっそく笠置に馳せ参じようとしたが途中まで行ったとき、城は落ち、天皇は囚われの身となった。高徳は落胆し、上寺山に帰って時節の来るのを待った。

 

元弘三年(1333)、後醍醐天皇は讃岐から脱出した。ほうき伯耆の国、船上山に義兵を募った。高徳は父、範長と共に参加した。

 

この年、鎌倉幕府は滅亡した。天皇は京都に還幸して、親政を開始した。

 

建武二年(1335)、足利尊氏が反乱した。一時、尊氏は敗れて、九州に敗走したが再挙、都への軍をあげた。

 

児島あたりも次第に北朝方が多くなった。高徳はそんななかで孤軍奮戦したが、戦況は不利であった。

 

興国三年(1342)、児島高徳は脇屋義助(新田軍)の軍の中にあって作戦をたてる将として従軍していた。脇屋義助は四国征伐に、紀伊田辺から小豆島を経て児島に立寄った。日比にあたりである。そして今治あたりに上陸して、間もなく大将の脇屋義助は発病して死んだ。敵に悟られては大変と、その死を隠していたが、いつか敵方の細川軍に知れるところとなり四国征伐は失敗した。高徳も敗軍の将として児島に逃げ帰って、利生のあたりにかくれ住んでいた。その頃の屋敷跡と井戸が残っているのかもしれない。

 

いよいよ、南朝方は不利となり、父範長も播磨で戦死した。高徳も新田義貞について戦ったが、南朝方は各地で敗戦した。高徳は最後は群馬県で死んだという説もあり、全国に何か所か墓があるが、ようとして知れない。

 

一途に天皇に見方し、負け戦と分かっていても身をていして奮戦した高徳に人気が集まりヒーローとなったのであろう。

 

話はかわるが、この利生には高徳井戸のほか、付近の山中には当時の頃の五輪塔や厨子形石塔があり、利生(おどう)という名も利生堂、利生塔を連想させ、三宅、和田姓が多いことからも、児島高徳は全くの架空の人物ではなさそうである。

 

「玉野の伝説」

著者:河井康夫

発行:昭和53年

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