鯉のぼりを立てない里
八浜の池のうちと言う部落には、五月の節句に鯉のぼりや絵のぼりを立てない風習が残っている。この風習には次の話が伝えられている。それは、荘内の伝説でも述べたが、天正三年六月の常山城落城の時のことである。
城主、上野高徳は常山城も、もはやこれまでと思い、客侍として城内にいた長谷井半之進盛之という武士をみこんで、当時六才になる末の女の子を託し、夜陰に乗じてひそかに城を脱出させた。
半之進は山道の険しさときびしい敵の包囲からようやく脱出し、まだ、六才のお姫様の手を引いてようやく池の内というところにたどりついた。
半之進はこの時、武士を捨てて帰農し、人里はなれた静かな山あいの村で姫を育てながら田畑を耕し、ひっそりと暮らしていたが、彼には半九郎という長男があった。
やがて、十年の歳月が流れ、今はもう身寄りとてないこの姫は半九郎と結婚し、長谷井家のものとなった。
それ以来、この姫に男の子が生まれることはそれが常山城主の血につながるという意味から危険であると考えた村の人達は、みんなで申し合わせ、たとえ男の子が生まれても、これを隠すため、鯉のぼりや絵のぼりを立てないことにしようとした。
以来、四百年もの長い間、この習俗は今も続けられているだけでなく、毎年この半九郎夫婦の墓前に長谷井一党が集り、法会を営んで供養するならわしが今も行われている。
なお、道清夫婦の墓は市の重要文化財にしていされて、池の内の奥まった山のふもとに建てられているが、この道清夫婦の墓が半九郎夫婦の墓のことである。
「玉野の伝説」
著者:河井康夫
発行:昭和53年
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