僧吽(そううん)僧正のはなし
増吽僧正は、応永から文安、宝徳年間にかけて県下各地や讃岐の寺々を復興し、弘法大師の再来と仰がれた。このあたりでは由加山蓮台寺、金剛寺、日比観音院、正蔵院、胸上神宮寺(三宝院)、山田無動院の復興につとめた。
仏画をよくし、版木を各所に残している。最後は山田の無動院で故郷の四国を望みながら八十四才で入定したと伝えられる。仏教の興隆につくした傑僧である。
僧吽(僧雲ともいう)は四国の香川県大内町の与田寺に生れた。正平二十一年(1336)のことである。僧吽は徳が高かったので、讃岐に次の伝説が残っている。
ある時、阿波の国の四国の八十八か所の札所羅漢寺に出かけた。帰るのが夜になってしまったので、その寺の仁王が増吽のお伴をして与田寺まで来た。
そして、増吽の徳にひかれた仁王は、いっそのこと、与田寺の門番にしてくれといって、与田寺の仁王になってしまった。それで今でも、羅漢寺には仁王はいないということになっている。
無動院には立派な聖観音立像があり、境内も広く、今も立派な経蔵、本堂があるが、荒れてみる影はない。増吽僧正の木像があったが、今は日比観音院に委託されている。
与田寺の増吽のはなし
増吽僧正は、足の裏に空海(弘法大師)の文字があったといわれ、弘法大師の再来として四衆の帰依深く、その徳は四方に輝き、八十二才で、生身のままはきものを残して登天したという。
玉野市では八十四才で山田無動院の石棺に入って入定したことになっている。各地に伝説を残すぐらい当時から優れていた僧であったのであろう。
「玉野の伝説」
著者:河井康夫
発行:昭和53年
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