菅原道真とにわとり
王子が岳下の唐琴よりのところに「天神の井戸」があり、最近、標示板も立てられドライバーなどの注目を引いている。
平安時代は吉備の児島は大きな島であった。中国大陸、北九州と大和を結ぶ主な交通は瀬戸内海を通る海上交通であった。
菅原道真が延喜元年(901)に北九州の大宰府に左遷された時、この地に立ち寄った。
身辺には京都から連れて来た幼い子が二人いるだけで、妻や娘は京都に残り、ごくわずかの領送使に伴われたさみしい旅であった。
途中の国々が食糧とか伝馬を給することもまかりならぬというぐらい、つめたいというよりも罪人のあつかいであった。
道真は健康もすぐれず、琴をひいて来し方行く末を思い嘆いた。こうしたことから、このあたりの海を琴の浦といい、沖の方を琴の海ともいう。 ここに泊った道真公は海岸に井戸を掘らせた。この井戸は昔、底が海に続いていて、しかも真水が出たといわれる。現在の井戸の石枠は明治29年に造られたもので、ゆかりの梅鉢がほられたものである。その時、泊った長者の屋敷に植えた梅の木には一つの芽から八つの花が咲き、八つの実がなった。人々は、この梅の木を八つ房の梅といった。今もこの木の種をお守りにする人が多いという。
監視の厳しい道真公は、唐琴でひとときのやすらぎをえたが、警護の役人は道真一行を早く出発させようと鶏を前の晩から節を抜いた竹に止まらせておいて、まだ夜が明けないのに、その竹の筒に湯を流し込んだ。 鶏は足が暖まって、朝が来たと思って鳴いた。そのため、道真公は未明のうちにせき立てられて出発した。以来、唐琴では今も鶏を飼う人はいないという。
道真公はその時三首の和歌を残した。
「船とめて 波の漂う琴の浦 通うは山の松風の音」
「しらがより 今朝から琴の聞ゆるは はるの夕陽に引く網の浦」
「白波や 波の譜かけて 夜もすがら 汐やひくらん 唐琴の浦」
一説に「風により波の緒かけて夜もすがら しほや引くらん唐琴の浦」ともいう。
話はかわるが菅原道真は、平安前期の政官界では珍しいほど純粋であった。あまりの出世に人のねたみを買い、太宰の権帥に左遷され、流謫、憤死を世の人はあわれみ、深い同情を寄せた。道真公の死後、京都では落雷の被害が続いたり、不吉な事が起こった。そんなこともあって、道真の霊が昇天して雷に化したのではないかとの噂が広がった。そのころの道真の肖像はきびしい面貎のものであったが次第に学問の師としてりんとした顔つきになった。現在は学問の神として信仰されたり、天神の井戸の水で書けば達筆になるともいわれている。
掲載:2000年11月
「玉野の伝説」
著者:河井康夫
発行:昭和53年
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