田井の住床と藤原成親卿
藤原成親は後白河法皇に気に入られ、平治の乱(1177)に源行綱、僧俊寛らと共に平氏を滅ぼそうとはかり、それが事前にもれて、捕らえられ備前に流された。いわゆるしし鹿ヶ谷事件の首謀者であるが、千戴集の作家としても知られる成親卿は大阪から海路で室津、牛窓などに寄港しながら田井の浦に流された。一説には下津井ともいわれているが、長門本には児島田井浦の柴の床につき・・・・・・とあり、その描写も田井の自然によく似ている。また、田井八幡宮のあたりに住床という地名があり、その跡ともいわれている。
当時は田井もずい分、海が湾入していて、八幡宮のすぐ下まで海がきていたであろう。
藤原成親卿は捕らわれの身で、殆ど自由のない身で田井の浦に着いた。浜辺にはそまつな漁師の家が並んでいた。三方を壁で塗りこめ、入口というよりも穴といった方がふさわしいかまえであった。
都の住いとは比べようもない、いわゆる羽生の小屋であった。成親卿は身の置場もなく、寝ても覚めても都を恋しく、何とかして故郷の都に帰りたいと祈った。心の痛みに耐えかねて、田井の浜辺を歩いていた成親卿は、沖の方で海士のいさり火がきらきらと波に数多くきらめくのを見て
大海にうつらば影の消ゆべきに
底さえもゆる海士のいさり火
底さえもゆる海士のいさり火
とうたを詠まれてさめざめと泣いた。
しばらくして成親卿は田井から有木の別所(吉備の中山)の山寺につれて行かれて殺された。
捕らえられて、わずか1〜2か月で殺されたのである。平安末期の貴族が武家の手から実権を取り返そうとはかない抵抗をした事件であるが、この時、僧俊寛は鬼界が島に流された話も後世の物語として有名である。
「玉野の伝説」
著者:河井康夫
発行:昭和53年
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