崇徳上皇と直島
直島は田井の浦の前にあり、離れ島である。「崇徳上皇が讃岐に配流されたとき、まず高松に着いたが、上陸を許されず直島に船を寄せて松山村に移されるまで三年間をこの島で過ごした。その場所を雲井の御所という」。と金毘羅参詣名所図会にも記されている。
直島の東側に泊が浦という漁港がある。その近くの丘に天皇神社があって、崇徳上皇をお祭りしている。
崇徳上皇は泊が浦に着いたとき、島の人々は上皇を真心をこめてお迎えした。そして、泊が浦に仮の御所を建てて、上皇は京よりの旅の疲れをそこでいやした。お体はいやされても、その心労はいやされることはなく上皇は島の砂浜をお歩きになっていた。
打ち寄せるさざ波の中に上皇は美しい紫がかった桜色の貝を見つけ、上皇はそっとてをさしのべられ、その貝を拾われた。
そうして、いくらか心がなごまれたその時、松林の中からこの島では珍しい琴の音が聞えてきた。見ると浜辺の大きな松の木の下で色あでやかな衣装をまとった姫君が琴を弾いていた。それは都に残して来たはずの姫君であった。もう一生逢うこともあるまいと思っていた姫君が琴を弾いていたのだ。 姫君もなつかしさと、お目にかかれた喜びとで、もう涙声になっていた。
それから、しばらくの間、姫君は上皇さまをおなぐさめするため心をこめて琴を弾いた。
上皇は砂浜で拾われた桜色の美しい貝を姫君に渡した。
恋忘れ貝。こんな名前がふさわしい貝だったのである。姫君はそっと打ち寄せる波の中にその貝をかえした。
三年は夢の内に過ぎ、姫君がお住みになった姫泊山、姫君が琴を弾いた琴弾の浜などを振り返りながら上皇はまたまた船で直島を発った。
名ごりを惜しむ島の人々に上皇は、まっすぐで、純朴な人たちの住む島だから「直島」という名前を付けたという。
島の人たちは、とても喜んでそれから直島と呼ぶようになった。
「玉野の伝説」
著者:河井康夫
発行:昭和53年
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