頼仁親王の配流地・豊岡の庄
後鳥羽上皇は、源実朝が死んで、源氏の血筋が絶えたのを喜んだ。政治が再び朝廷にもどると考えたからである。その頃、後鳥羽上皇は都で院政をしていた。
ところが、北条政子と義時が三寅を将軍に迎えて、そのまま政治を続けたので、上皇は幕府を討つ計画を立てた。いわゆる、承久の乱である。
この乱に敗れた朝廷方には厳しい処分がくだされた。上皇は出家し、讃岐に流され、順徳上皇は佐渡に、後鳥羽上皇の王二である頼仁親王は備前児島に流された。
承久三年七月、二十二才の時であった。備前国、豊岡の庄児島に遷され、地頭であった佐々木太郎信実が幕府の命で守護してきた。当時の豊岡の庄は現在の八浜をはじめ、荘内の北部一帯を含む広い範囲であった。ここのどこかに頼仁が流されたのだが、一説には小島地であるという。
豊岡の東に政所といって庄の役場のあとの地名があり。親王が小島地に駐留したとしたら政所と親王との交渉がかなり多かったであろう。
頼仁親王はここから郷内の林に流されるのであるが、小島地から滝に宿泊し、由加を経て林についたという。この時、滝の依田家に宿泊したので、屋号を御所といい、ここを中心とする一郭の小字も御所といっている。これも、まんざら架空の名前ではなさそうである。
何故なら、本来は、御所とは至尊の御座所をいうのであるが、後には親王家も御所と敬称している。頼仁親王は林に流されてから尊流院に居住され、二十七年後に四十七才で死去されている。尊流院には頼仁親王の御庵室があり、諸興寺跡には親王の墓がある。この諸興寺と滝の正蔵院は深い関係があり、頼仁親王は寅年ともいわれ、寅年の人は薬師さまをよく信仰する。徳川家康が薬師如来を信仰したのはよく知られている。
ところで、滝の正蔵院の本尊は薬師如来で、こうしたつながりも考えられ、興味もある。 頼仁親王の位牌には陰徳光院冷泉宮頼仁親王尊位とある。
頼仁親王の系図の中に、児島高徳が出てくるのも伝説として興味深い。
「玉野の伝説」
著者:河井康夫
発行:昭和53年
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