高倉上皇とこしまの宿
八浜は市内でも最も古くから栄えたところで、今も、街角のいたる所に中世の姿をとどめている。
八浜八幡宮の鳥居をくぐると、うっそうとした両児山である。苔むした石段が緑のトンネルを登る。この途中に八浜公園入口があってそこに「高倉上皇御駐蓮之地、こしまの泊り」と刻まれた石碑がある。
高倉天皇は、平安末期の天皇であるが、平清盛の女、徳子(建礼門院)が中宮になると、次第に、後白河院と清盛の対立が深まるに連れて、天皇は板ばさみになった。
また、寵姫小督との仲を清盛に引きさかれたこともあって、二十才で譲位した。
徳子の生んだ安徳天皇を皇位につけるため、その意に反して譲位しただけに、高倉天皇は心中面白くなかった。そうした折、清盛は自分の権威を示すため、莫大な金銀を投じて建築した平氏の守護神、安芸の宮島へ高倉院の行幸を願った。
治承四年三月、高倉院は平家の公卿、武者に守られて都をたち、舟路で備前の児島の泊りに着いた。この児島の泊りがどこであったかはっきりしないが、多くは八浜説が強い。
海のかなた、現在の岡山市の湯迫に流されている松殿関白をしのんで、まだ淋しい港であった児島の泊りに一泊した。そして二十五日に厳島に着いている。帰りもやはり、内海航路で児島の泊りに着き、波風の静まるのを待って高砂に上陸、福原(神戸市)に寄ったことが、高倉院厳島御幸記に載っている。
高倉天皇は新古今集に
薄霧のたちまう山のもみじ葉は さやかならねど、それと見えけり
の歌があり、林間に酒をあたため、紅葉を焼くという唐詩を思い浮かべた優雅な逸話がある。
「玉野の伝説」
著者:河井康夫
発行:昭和53年
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